2017年11月21日(火)リタイヤ生活402日目

今日は昨日とうってかわって雲のほとんどない気持ちの良い晴天だった。

 

昨夜は、実家の近くの温泉旅館に泊まった。

そのような時には、朝起きて、また大浴場に入浴に行くのだが、

今日は自宅まで車で帰るので、途中で眠くならないように布団の中で体力を温存した。

この1週間あまり、本当に慌ただしくて、自分がどれだけ疲れているかの実感もつかめなかった。

 

温泉旅館らしい朝食を食べ、荷物をまとめてすぐ近くの実家へ。

兄は既に会社にいっており、義姉が迎えてくれた。

 

家の祭壇には、母の遺骨、慰霊、遺影が花に囲まれて綺麗に並べられていた。

そこで線香をあげて、更に奥の祭壇で父にも線香をあげて、

少し義姉と話をした後、車で自宅に向かった。

 

雲の少ない青空で、少し紅葉づいてきた山々が綺麗だった。

途中、雪をかぶった富士山も大きな姿を現したが、

この頃には家内も長男も疲れたのか、車の席で寝ているようだった。

私はもっぱら運転だったが、車に安全機能が付いており、前の車と等間隔を保って自動的に追従してくれるので、

比較的景色を楽しむことができた。

特に大きな渋滞もなく、ここ数日で疲れた筈なのに眠くなることもなく、こちらに帰ってくることができた。

 

家内もあまり疲れていないようだったので、少し遠回りして、長男の自宅に近いところまで送っていって、

下ろしてから帰宅した。

平日で空いていたせいか、長男を送っていった1時間半程度のオーバーで自宅に帰り着くことができた。

 

これでやっと一息。次は、年末の49日だ。

 

2017年11月20日(月)リタイヤ生活401日目

今日は、朝から冷え込んで、本当に寒い1日だった。

 

昨日から、再び帰省しており、昨夜はお通夜会場にひとりで一泊した。
夜中に何回か目が覚めて、その都度、母の前のろうそくが消えていないか確認した。

 

葬儀社の人が午前6時にはこの斎場に来るということだったので、

午前4時半には起きて、昨日用意されたサンドイッチを食べて、身支度を整えた。

 

午前6時半頃に、少し体を動かしたくなって、近所を少し散歩することにした。

田舎なので、斎場の周りは果樹園等で、若干車は通ったが、人はほとんど見かけなかった。

7時頃に斎場に戻ると、丁度、喪主の兄夫婦や、旅館に泊まった妻、息子がマイクロバスで到着したところだった。

これからが忙しい。

 

会場には既に霊影や花などがきれいに飾り付けられていた。花だけでも70近く並べられていた。

広い控え室で待っていると、そろそろ親族や関係者、兄の会社関係の方々が来られはじめた。

私は、大学以降は東京暮らしなので、親族以外の人はほとんど分からない。

控え室でのお茶だし等は家内や義姉に任せて、親族の人たちと話をしていた。

 

やがて納棺の儀式のため、皆が集められた。

昨日のお通夜の会場に親族が集まって、葬儀社の方の言われるとおりに、

母の遺体に旅装束を着せて最後に納棺した。

この間、白い水引を各自1本づつもって、左の方から斜めに回して縛った。

最後に、棺の母に花を手向けたあとで、その水引を切って、棺の中に入れた。

この水引の意味は何だったのだろう。

 

棺を乗せた霊柩車を先頭に、我々、親族一同はマイクロバスに乗って兄の家の前に戻った。

ここで、近所の方に最後のお見送りをして頂く。

冷え込んでいる早朝にも関わらず、家の前には20人以上の方が集まって頂き、兄から挨拶をした。

田舎では、このような近所つきあいを大切にする。

今日の告別式や葬儀も、近所の方が何人か来て、手伝いをして下さる。

 

近所への挨拶を終わり、車は火葬場に向かった。

火葬場は、山の麓にあり、いっそう寒かった。

そこで皆で母に最後のお別れをした後、母の遺体が火葬に賦された。

火葬は通常、1時間半かかるということで、皆で控え室で休んでいた。

母は、亡くなる前、飲食ができなくなって、やせ衰えていたので、

1時間ほどで呼ばれ、遺骨を骨壺に移す儀式を行った。

喪主から初めて、親族が皆終わると、後は担当者がどこの骨かを説明しながら骨壺に納めていった。

 

すべてが終わると、喪主の兄が位牌、義姉が慰影、私が骨壺を持ってマイクロバスで斎場に向かった。

朝、準備万端だった斎場に、これらを持ち込み準備が整った。

とりあえず、親族や関係者で早々に昼食の弁当を食べ、式の準備に移った。

 

午後1時から告別式、2時から葬儀だった。

告別式では、喪主である兄夫婦と私の夫婦、そして兄の長男夫婦が並んで、

焼香に来て頂いた方を迎えた。

ほとんどの方は、田舎での兄の会社の取引先の方々で、私が顔と名前が一致する人はあまりいなかった。

とはいっても小中学校の同級生が2人いた。

 

葬儀では、うちで檀家をしている和尚さん、この人も私の同級生だが、と

そこに加わる4人の僧侶の方が来て頂き、お経を読んでいただいた。

意外に短い感じで、短時間で終了した。

そのお経を読んでいる間に、参列者は全員、焼香を済ませなくてはならないとのことで、

これも少し慌ただしかった。

これで葬儀も終了。

その後は、別室で精進落としの会食が行われた。

 

遠くにいる親族や知人もこのような時でないと会う機会は少ない。

母親のおかげで、そのような人たちにも挨拶をすることができた。

午後5時前に会食も終了。

料理は結構余ったが、参列の方が折り詰めに詰めて持ち帰って頂いた。

 

この後、マイクロバスで兄の家に戻って一休みしながら、位牌などを葬儀社の方が

持ってきてくれるのを待っていたが、なかなか来なかったので、近くの旅館に戻ることにした。

 

家内、長男と旅館に戻り、やっとくつろぐことができた。

今日来て頂いた方は、皆、母のことを惜しんでくれていたが、

94歳での苦しまない老衰だったので、私としては安らかな気分で皆と接することができた。

 

 

 

 

2017年11月17日(金)リタイヤ生活400日目

今日も天気。久々に自宅で迎える朝だ。

 

昨夜、自宅に戻って、夜はテニススクールに行き、
何故か絶不調だったものの、久々の運動で少しリラックスできた。

 

今朝は、すっきりした寝起きで始まり、
午前中は、あるボランティア団体の打合せに参加した。

会議室には、開始時刻すれすれに入ったので、
司会者の横の席しか空いていなかったが、結果的にそれが幸いした。

 

この打ち合わせでは、研修のカリキュラムに関して議論しているのだが、
そもそもの研修の目的、到達目標が明確ではないまま、
具体的な中身の議論に入っているため、私としては非常に議論がしにくかった。
ただそれを、おかしい、とストレートに言っても、
和だけを重んじる人たちの中では、徒労に終わりそうな気がしていた。
そこで、司会者が議論したそうな論点を言う都度、その目的を聞いて、
であればこうでは、などと提案しつつ、他の方の発言を促すようにした。
つまり、私は、思っている方向に議論を差し向けるだけで、
明確な意見は、極力、自分からはいわない、という作戦をとった。

これが、私のような最近入った人間にとっては、

他の方にパージされずに思った方向に持って行く唯一の手段だと思った。

 

この作戦は、今回の打ち合わせでは、思った以上にうまくいって、
会議は私の思った方向に進んだし、
発言された人も、自分自身の意見が通ったと思っているはずだ。
私の納得できなかった話しも、ある程度、納得できるレベルになった。


打ち合わせは思った方向に進み、何とか時間内に終了することができた。
それから席を移して、先日の研修の打ち上げの会食に同席し
すこしは懇親を深めることが出来たと思う。

 

家に帰って夕食を食べた後は、ひさしぶりにジムへ。
テンポの速いスタジオプログラムに参加して足がもつれそうになったが、
何とか無事に終わることができた。
明後日には、葬儀に列席するため田舎に向かう。
今、けがをするわけにはいかない。

 

2017年11月16日(木)リタイヤ生活399日目

今日も快晴、少し雲がかかっていたが、
向こうに見える山脈がモザイク模様で、
紅葉が綺麗だった。

 

昨日は母をみとり、施設の宿泊室に1晩泊めて頂いた。
もう看護も不要になり、何か気が抜けた感じで1晩過ごした。
まだ薄暗い6時過ぎに、母の部屋に行って、
化粧をして頂いている母の顔を確認してから、ホテルに戻った。

 

家内は、ホテルのツインの部屋に独りで泊まっており、
寒い外からホテルの部屋に入ると、ずいぶん暖かかった。
でも家内によると、このホテルは夜中は寒くて眠れなかったとのこと。
私も夜中に目が覚めて、その後眠れなかったため、夫婦で寝不足状態だった。

 

金曜日にお通夜、土曜日に葬儀と聞いていたので、
今日1日は、その手配で忙しい兄の手伝いをして、等と考えていると、私の携帯電話が鳴った。
この電話は兄からで、斎場が空いていないため、お通夜が日曜日、葬儀が月曜日になる、とのことだった。
すると丸2日ほど開いてしまう。
そこで2日間で予約したホテルのもう1泊はキャンセルし、今日は家に帰ることにした。
家内は、夜寒かったこともあり、同じホテルに今夜泊まらなくてすむことに関しては
少しうれしそうだった。
キャンセルに対するホテルの対応は好感のもてるものだった。

 

あたふたと荷造りをして、母の待つ施設に向かった。
午前10時に近くの部屋の人や面倒をみてくださった介護士の方達が正面玄関に集まって

母を送り出して頂けるとのこと。

葬儀社の方が母をストレッチャに乗せて正面玄関のホールのところに運ぶと、
施設内の多くの方がお見送りに来てくれており、
母の介護をしてくれた若い女性が代表して別れの言葉を読み上げてくれた。
最後に皆で、ふるさとの歌を歌ってくれた。


皆が別れを惜しむ中、母は霊柩車に乗せられ兄の自宅へ。
自宅では、奥の間の仏壇の前に安置された。
この仏壇には、今日が命日の父が祭られている。

 

この後は、葬儀の準備などで慌ただしく過ごし、午後3時過ぎに東京に向かった。
家内は、病気の後体力が落ちているせいか、
あるいはこの数日間、いろいろと気を遣ったせいか、ずいぶん疲れたようだった。

私も少し疲れていることは自覚していたが、何とか午後6時半過ぎには無事に自宅に到着。
あまりおなかが減っておらず、途中で買ったパンなどで軽く夕食をとった。

 

家に帰りついて見ると白昼夢のような慌ただしい5日間だったが、
施設で大変親切にしていただき、安らかに眠りについた母のことに関しては、
何も未練を感じることはなかった。

2017年11月15日(水)リタイヤ生活398日目

田舎の今日の天気は、昨日とは打って変わって晴天。
朝のうちは少し雲が多かったが、徐々に雲が減って、
川の向こうに見える山並みが、紅葉混じりで綺麗だった。

 

朝、母の大きな息継ぎの音と、
介護して頂く方の声でめがさめた。
ここは、特別養護施設の母の病室。
母の容態がすぐれないため、私は付き添の為、隣の補助ベッドで一晩明かした。
夜中は介護の方が何回も来ていただき、
介護するときには必ず母に優しい言葉をかけてくれる。
その都度、私は目が覚めるのだが、母に対する優しさがとても嬉しくて心地よかった。

 

母は、昨日から既に意識がなく、息だけを大きくついでいるだけのようだ。
その息継ぎが結構大きいので、心配で、昨夜はしばらく母を見守っていたが、
安定しているようだったので、何とか眠りについたのだった。

 

朝になっても同じように息継ぎをしている。
6時になったので、容態が安定している事を確認してホテルに戻った。

ホテルでは、風呂を浴びて体をほぐし、妻と朝食を取ったあと、荷物をまとめた。
こちらに来るとき、とりあえず3泊分の予約をしていたが、
チェックアウトの日が今日になった。
そのため昨日、さらに延泊をしようとしたら、すでに満室とのこと。
他の幾つかのホテルも問い合わせると、皆、満室で、
小さいホテルでやっと1部屋確保できたのだった。
午前中にチェックアウトして、午後にそちらにチェックインしなくてはならない。
トランクを車に積んで、家内とまた、介護施設に戻った。

 

母の部屋に戻ると、既に義姉が来ており、母を見守っていてくれた。
母は夜中よりも息継ぎが少しちいさくなったが、容態は安定しているようだった。
でも、元々認知症を発症しているのに加え、
最近は食事も水も喉を通らないため、
今は痩せこけて、声をかけてもわかっているかどうか、分からない状態だ。

母のベッドをはさんっで、義姉と私たち夫婦で話していると、
母はそれが聞こえているかどうかわからないが、瞳は左右に動いていた。

 

時折、看護士が心配して来てくれる。
母の手や足は、チアノーゼのため、少し紫になっており、
血圧はすでに図れず、脈拍も弱くなってきた、とのこと。
呼吸は1分に28回ぐらい。
介護士の話では、これが一時的に30回くらいになって、肩で息をするようになって、
その後、徐々に回数が減ってくると、終わりを迎える事になるとのことだった。
このような説明をしながら、看護師の方は母を見て、すこし眼には涙が滲んでいる。
涙ぐみながらも、終わりを迎えたときの為に、着せる着物の場所などを確認していた。

 

母は、この施設に入って昨日で丁度、3年目だった。
ここでは、どの介護士も、家族のようにして介護してくれている。
今日は、介護士の方が何人も来てくれて、母に優しい言葉をかけてくれる。
皆、母の世話をしてくれた人達で、今日は母の介護のためというより、
母に最後の別れをしたいため、それそれの持ち場を離れて来てくれているらしい。
この施設は大きく、10数部屋の個室が1つのユニットで、8ユニットに分かれている。
それぞれの間で時折異動があるため、最初の頃に母の世話をしてくれた介護士の人が、
今は別のユニットに移っている事も多いらしい。
それらの人達が、母の容態を聞きつけて、
忙しい職場から自主的に会いに来てくれている。
それぞれ、自分の気持ちの整理をつけるために来てくれたようだ。
皆、既に意識のない母に優しく声をかけてくれる。

 

このような老人介護施設では、介護士は、
親身になって介護した人のお別れの時に立ち会うことが多いと思う。
気持ちを込めて介護していればいるほど、別れは辛い。
このような現場で、一人一人親身になってくれる介護士さんたちは、
どのように気持ちの整理をつけているのだろうか。
それが、入っている高齢者に対する、生きている間の優しさとして現れているようだ。
母を知るどの介護士さんも、元気な頃の母は、いつもニコニコしていて
母の笑顔に癒された、といった話をしてくれた。
そんな介護士さんも、母と一緒に写っている写真を見ると優しい笑顔をしている。
そんな介護士のいる施設にいられた母は幸せ者だったと思う。


昼過ぎにかかりつけの先生が来て診断してくれて、
チアノーゼは出ているが、脈拍はしっかりしている、とのことだった。
それを聞いて少し安心して、家内とともに、
昼食と次のホテルへのチェックインのため外出した。

 

施設に戻ると、母に部屋には、義姉とは入れ替わりで兄が来ていたが、
しばらく話をしてから、会社の方に戻っていった。

そのあと、母の呼吸が少し早くなり、1分間に30回くらいになってきた。
だんだん肩で息をするような感じがみられてきた。

 

慌てて兄に電話をして直ぐに戻ってもらうことにした。3時40分位だった。
4時過ぎに来てくれた時にも呼吸数は同じくらいだった。

明日は100歳で亡くなった父の命日だ。
今夜半まで持ってくれればとの話もでた。

 

同じ介護施設に奥様が入っている親戚の人がお見舞いに来てくれた。
その人と兄がしばらく話をしている間に、母の息が少し遅くなってきた。
顎を開けて息をしていたのが、頭全体を動かして息をしている感じになった。
介護士の人が、このように息をしていると、苦しそうに見えるけど、
脳内ホルモンがでており、本人は苦痛を感じていない、と言っていた。
それが救いだった。

 

今夜は、義姉が母に付き添うとのことだったが、このような状況なので
私も付き添うことにして、急いで泊まるための荷物を取りにホテルに行った。
病後、体力の回復していない妻はホテルで待機してもらうことにして、
着替えて荷物を手早くまとめ、施設にもどると母の息は更に弱くなっているようだった。

また介護士がやってきて様子を見てくれた。
もう終わりが近いとのことで、涙ぐみながらも母の髪をなでて、
よく頑張ったねえ、もういいよ、よく頑張った、などと話しかけていた。
息継ぎの間隔が長くなり、今にも止まりそうな、それでもがんばって息を続けていた。

 

最後は、兄、義姉、私が見守る中で、安らかに息をひきとった。
本当にその言葉通り、やすらかに息をひきとった。
人は、いつかは必ず死を迎える。
その点で、母はみんなに看取られて、安らかに死を迎えることが出来て
幸せだったのではないかと思う。

 

その後は、介護士の方が母を着物に着せ替えて、化粧をしていただき、
葬儀社の人がドライアイスなどを持ってきた。
兄がお寺などにも電話して、お通夜や葬儀の日程も大体決まった。

 

夜になって、私は今、介護施設の宿泊室に泊めて頂いている。
母は、窓を開けて寒い空気を入れた病室に安置されている。
そんな母を誰かが一緒にいた方が良いとのことで、私が施設に泊まることになった。
私が日曜日にこちらに来てから、母は3日間がんばってくれた。
その間、母と同じ部屋で寝泊まりもでき、最後のお別れをすることもできた。
宿泊室で、私は今、安らかな気持ちで母のことを偲んでいる。

 

2017年11月14日(火)リタイヤ生活397日目

今日は朝から霧雨で、途中から雨に変わった。

 

母の付き添いで、施設の母の部屋の補助ベッドに1晩泊まった。
朝になって母の様子を確認し、しっかりと息をしている事を確認してから、ホテルに戻った。

慌ただしく風呂を浴びて、家内と朝食をとり、急いで介護施設に戻った。

 

今日は、午前中のボランティアの方が来て、母の前で歌を歌ってくれるとのこと。
部屋についてしばらくすると、ボランティアの方々がこられた。
思ったより多人数で、4人の方がハーモニカ、残りの方が歌を歌ってくれた。
曲は、「ふるさと」だった。


その時には、施設の普段面倒をみていただいている介護士の方も何人か来てくれて、
部屋の中はいっぱいになっていた。

歌い始めると、私は何故か息が詰まったようになって、しばらくの間、声が出せなかった。
母はすでに意識が混濁しているようで、それまでは無反応だったが、
歌を聴いているうちに、歌っている人の方をはっきりと見るようになったようだった。


1曲だけだったが3番まで歌い終わると皆の中から拍手がわいた。
普段面倒をみていただいている介護士の方も、義理の姉も、家内も、皆泣いていた。

壁には、今、泣いている介護士さんたちと母が、楽しそうに笑っている写真が何枚も貼ってある。
わずか数ヶ月前にはふっくらしてニコニコと写真に写っていた母が、
今はやせ細って意識なくベッドに横たわっている。

 

曲の後、しばらくの間、母は、すこしこちらをみているような視線を送ってくれていた。

少し覚醒したようだった。音楽の力はすばらしい、と思った。


義理の姉と交代で昼食にでた後は、夕方まで病室にいた。
昨日よりも呼吸が小さくなっていることが気がかりだった。

夕方になったので、家内とホテルに帰って食事をして、
私は、再び支度をして母のところに戻った。
今夜も、病室で付き添う。


部屋を暗くすると、母は安らかな顔で、大きな呼吸をしながら、寝ているようだ。

この夜は、何回も目が覚めては、母の呼吸を確認して、また横になる、の繰り返しだった。

2017年11月13日(月)リタイヤ生活396日目

今日も朝から秋晴れ。


今、帰省中なので、向こうには南アルプスの手前の山々が綺麗に見えている。

ここは、母のいる特別養護老人ホームの中の母の部屋。
母は、ここに、もう約3年もいる。

 

痴呆症を発症してここに入所してから約3年。
最初の頃は、まだ痴呆症だけで、体は元気だったので、
少し歩き回れることも出来たが、
やがてだんだん歩けなくなって、車椅子になってしまった。
でもまだ食欲はあって元気で、いつもニコニコしていた。

施設の人も、母はいつも穏やかで、怒ったところを見たことがない、と言っていた。

 

今、病室の壁には母の写真が多く貼られているが、どれもニコニコした写真しかない。

そんな母が、1ヶ月くらい前から食べ物を受け付けなくなり、
点滴もできなくなり、この1週間位は進は水も飲めなくなっている。
1ヶ月くらい前に会った時よりも痩せこけて、
顔を見て話しかけても、ほとんど反応は返ってこない。

看護士の話では、点滴も内蔵に負担がかかり、
食べ物も水もとらせようとすると、誤嚥性肺炎になる恐れがあるため、できないとのこと。
この施設は病院ではないため、いろいろなチューブなどを繋いで
無理やり生存させようとするよりも、ご年輩の方に対しては、
出来るだけ自然のまま、様子を見守る、とのこと。

それが、当人に対してできる最大限のことだそうだ。

このような状態だと、特別なホルモンが分泌されて痛みを感じない、とのことだった。

確かに母は、やせ細っているものの、苦しそうなそぶりはない。

ほんやりした視線で、呼吸をしているだけで、顔を寄せてもあまり焦点が会わない。

 

ここの介護の人たちは本当に親切だ。
多分、この施設の経営者の考え方がそのまま反映されているのだと思う。
この施設に思ってお見舞いに来ると、必ず「わざわざ、ありがとうございます」といわれる。
「いつもお世話になっています」とこちらが言う前に、
相手からも「いつもお世話になっています」と言われる。
帰るときには、「ありがとうございました」と言って送ってくれる。
最初のうち、少し違和感を感じていたが、次第に考え方が理解できるようになった。

この施設の入居者は、介護士にとっては家族なのだ。
そのため、家族の一員としての挨拶をしているのだと思う。
それが普段の介護にもでている。
母に介護するとき、皆優しく声を掛ける。
まるで実の子供が孫のような態度で優しく接している。
この施設は、本当によい施設だと思う。
東京育ちの家内も、私も施設に入るようになったら、ここに入りたいというようになった。

 

母は、だいぶ足が冷たくなってきているが、呼吸はしっかりしていた。
昼に付き添った後、夜になって、もう一度施設に戻り、一晩中付き添った。

せっかく帰省したので、母に寄り添っていたい気持ちもあったし、

この数日、泊まり込んで来た義姉にこれ以上、無理をさせられない、との気持ちもあった。


同じ部屋で付き添っていると、

母がしっかり呼吸をしているところは補助ベッドからもよく見えており、
安心して一晩過ごすことができた。